私たちは唯一にして生ける真の神を信じます。この神は、永遠の聖なる実在者であって、父、み子、み霊の三位一体の人格を持ち、その神性においてまったく等しく、ただ霊とまことをもって拝されるべきお方です。

日本人の神観念は、ギリシャ人のそれと同じように、自然宗教的であり、多神教的である。パウロは、アテネで伝道した時、次のように指摘している。「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません」(使徒17:23、24)。彼は、神は創造主であり、観念や偶像ではないことを、はっきり宣言している。

私たちは、まず神は唯一にして生ける方であることを、告白する。神は唯一である(申命記6:4、マルコ12:29、ヨハネ17:3、第一コリント8:4-6)。生ける神である(ヨシュア3:10、エレミヤ10:10、第一テサロニケ1:9)。永遠の聖なる実在者である(創世記21:33、イザヤ4:28、第一ヨハネ5:20、イザヤ8:13、エゼキエル20:41、エペソ4:24、黙示録4:8)。

神は唯一であるが、父、み子、み霊の三位格(ペルソナ)を備えておられる(マタイ28:19、第二コリント13:13)。三位一体は偉大な秘義であって、人間の論理で完全に説明し尽くすことはできない。唯一の神は、父なる神、み子なるキリスト、聖霊なる存在として自らを現された。私たちは、神が唯一であられると共に、三位格であられることを信じる。

神は霊とまことをもって礼拝されるべき方である。主イエスは、サマリヤの女に「神は霊ですから、神を礼拝する者は霊とまことによって礼拝しなければなりません」(ヨハネ4:24)と語られた。私たちは、〈生ける真の神〉を信じ、〈霊とまことをもって〉礼拝する。

1. 父なる神

私たちは、天地の創造主、聖においては完全であり、知恵においては無限であり、力においては計り知ることのできない、父なる神を信じます。また、深い哀れみをもって、人間の諸問題に関心を示し、私たちの祈りを聞き、祈りにこたえ、イエス・キリストを通してみもとに来るすべての人を、罪と滅びから救うことを心から喜ぶ方であることを信じます。

神は単なる存在ではなく、人格的なお方である。主イエスは、「天にいます私たちの父よ」(マタイ6:9、ルカ11:2)と祈ることを弟子たちに教えられた。唯一の神は人間のすべてを知り、それにこたえることのできる父である。

さて、その父なる神は、天地の創造主であり(創世記1:1、イザヤ40:26?28、マルコ13:19、使徒17:24-29)、聖においては完全であり(イザヤ6:3)、知恵においては無限であり(ローマ11:33)、「力においては計り知ることのできない(エペソ1:19-20)方である。ここでは、神の完全で無限であることが、具体的かつ最大級に告白されている。

神は、人間のすべてに深い関心を持っておられる。〈深い哀れみをもって〉は、人間に対する深い関心と大きな愛を表す(ヨハネ3:16、ローマ9:22-24)。そのゆえに、私たち人間にとって救いの希望がある。神は私たちから遠く離れておられるのではなく、私たちと共におられ、私たちのすべての祈りにこたえて下さる方である(第二歴代誌6:30、ルカ18:1-8)。

神はすべての人間が救われることを願っておられるが、〈イエス・キリストを通してみもとに来るすべての人を、罪と滅びから救うことを心から喜ぶお方である〉。つまり、神のみ心はすべての人が救われることであるが、それは必ずしも無限定ではない。人間の罪の現実をそのまま容認できないからである。人間は罪を悔い改め、イエス・キリストを信じ、神と和解しなければならない。〈イエス・キリストを通してみもとに来るすべての人〉という告白は、人間の救いにおいて最も基本的なことである(使徒4:10-12)。人間の救いに関するこの宣言は、他宗教の人々には独善のように思われるかも知れないが、むしろ客観的な神のみ心である。

2. 子なる神

私たちは、聖霊によって処女マリアより生まれ、その生涯罪なく、十字架の死と葬り、体のよみがえりによって罪のあがないを完成されたみ子なる神イエス・キリストを信じます。

キリスト教がユダヤ教を始めとする他の諸宗教と決定的に違うところは、イエス・キリストがみ子なる神であり救い主であると告白していることである。キリストは聖霊によって処女マリヤよりお生まれになった(ルカ1:26-38)。つまり、完全な神が完全な人として、この地上に出現されたのである。その生涯において罪を犯すようなことはなかった(ヨハネ19:4、ヘブル4:15)。キリストは、このように完全で罪のない方であられたので、人間の罪を完全にあがなうことができたのである。〈罪のあがない〉はキリストによる救いの核心であり、人間の罪のために代価を払って人間を罪から解放することである(ローマ3:24、ヘブル9:12)。

キリストは、そのあがないを二つの出来事を通して完成された。第一は、〈十字架の死と葬り〉である。キリストは政治犯として処刑されたのではなく、人間の罪の裁きを受けて十字架につけられたのである(第一コリント15:3、マタイ20:28)。第二は、〈体のよみがえり〉つまり復活である。キリストの復活は、罪と死とに対する二重の勝利である(第一コリント15:55-57)。それは神の全能の力による勝利であり、その復活の力によって私たちも罪と死とに対して勝利を得ることができるのである(エペソ1:19-21)。

キリストによるあがないは、真実な大祭司であられることにもよる。キリストは永遠の大祭司であるがゆえに、人間の罪を完全にあがなうことができたのである(ヘブル7:24-27)。

3. 聖霊なる神

私たちは、父とみ子から遣わされている、聖霊なる神を信じます。また罪と、義と、裁きについて、人々の目を開き、イエス・キリストを信じる者を新生させ、その人の心の内に住み、清め、教え、導き、助け、強めて下さるお方であることを信じます。

今日、聖霊とその働きの理解に混乱が見られるが、私たちは、聖書の教えによらなければならない。主イエス・キリストは弟子たちに約束して言われた。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかしもし行けば、わたしは助け主をあなたがたに遣わします」(ヨハネ16:7)。約束された通り、昇天された後、助け主である聖霊が弟子たちに与えられたのであった(使徒2:1-4)。

私たちは、聖霊について特にその働きに焦点を合わせて、告白している。聖霊の働きは三重である。

第一は、罪と義と裁きを認めさせる(ヨハネ16:8-11)。人間は、神に対する罪と神の義と神の裁きについては盲目であり、またそれらを認めようとしない。罪とは不信仰であり、義は神の正義と正しい関係であり、裁きは現在と終末における裁きである。聖霊が働かれるとき、初めてそれらを鋭く認めることができる。

第二は、新生である。キリストは、ニコデモに、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません」(ヨハネ3:5)と言われたが、だれでも聖霊によらなければ新生することはできない。〈新生〉とは、単に再生することではなく、神の国の民として新しく生まれ変わることである(第一コリント15:50)。

第三は、清めと導きである。神の国の民とされたキリスト者に対する聖霊の働きは、豊かで多様である。聖霊は、キリストを信じる者を新生させるだけではなく、キリストを信じる者の内に住まわれる(第一コリント6:19、ローマ8:9-11)。そして、私たちを清め、教え、導き、助け、強めて下さる。