私たちは、キリストをかしらとした見えない唯一の教会が存在していることを信じます。この教会は、キリストの体であって、時間的(歴史的)にも、空間的(地域的)にも、生まれ変わったすべての人々によって構成されています。また、キリストの体であるこの教会は、見える形において各地区に存在して、神を拝し、互いに協力し合い、キリストの命令に従って、愛をもって失われた世界に福音を伝え、バプテスマと聖餐(さん)との礼典を守り、平等な働きをするものであると信じます。

私たちは、教会について豊かな内容のある信仰告白をしている。見えない普遍的教会と見える地域の教会、教会のかしらであるキリストとキリストの体である教会、福音の宣教の使命とそのための健全な協力、聖礼典、教会の平等性の強調等である。それらすべてがあるものは縦糸、あるものは横糸となってあたかも色彩豊かな織物のように織りなされている。このように豊かで有機的な教会観は、聖徒の健全な成長と神の救済の完成のために最も本質的なものである。

キリスト教は二千年に及ぶ歴史において、世界のほとんどすべての国に伝えられ、多くの民族の中で多様な教会と教派を生み出してきた。それだけに、教会の普遍性と特殊性とを、均衡良く理解しなければならない。見えない教会だけを強調するとき抽象的になり、見える教会のみを主張するとき教派主義のとりこになってしまう。

最近、〈キリストの体〉としての教会観が繰り返し強調され、聖徒の有機的交わりと賜物による積極的な奉仕が期待されている。それは、救われた聖徒の健全な成長のためでもあり、教会の発展のためでもある。私たちは同じ趣旨から、〈キリストの体〉としての教会に焦点を合わせ、教会に関する信仰告白をしているのである。

1. 教会の普遍性と地域性

キリストの教会を、〈見えない教会〉と〈見える教会〉に分けて理解する考え方が伝統的にあり、私たちもその考え方に従っている。それらには、際立った対照がある。

第一は、普遍性と地域性である。〈見えない教会〉は普遍的ですべての時代のあらゆる民族における全聖徒を含む。それに対して〈見える教会〉は、地域的であって、それぞれの地域において固有名詞をもって現実に存在している。現実には、地域性と共に教派性が加わってくる。今日の世界においては、同じ地域においても異なった多くの教派の教会が存在している。

そこで求められることは、普遍性と地域性の健全な調和である。私たちが、〈キリストをかしらとした見えない唯一の教会が存在していることを信じます〉と告白するとき、現実の地域教会の在り方に確信を持つと同時に、それは普遍教会の一部であることを認め、教派的遺産と立場を確信しつつも独善に陥らないように自戒するのである。

第二は、純粋性と現実性である。〈見えない教会〉は真実に生まれ変わった聖徒たちのみによって形成されているが、〈見える教会〉は教会員とされた者たちによって構成されている。厳密に言うならば、見える教会の教会員と見えない教会の会員とは一致するはずであるが、現実には見える教会の教会員と認定するのは神ではなく人間であり、真実に新生していない者が加えられる可能性がある。現実の教会においてはその可能性を全く否定することは不可能であり、毒麦の例えのように(マタイ13:24-30、36-43)、究極的には神の裁きにゆだねなければならないであろう。

ただ現実の教会に求められていることは、自らの限界をわきまえつつも教会を真実なものとし、謙そんになって他の教会と協力し合ってゆくことである。

2. キリストの体としての教会

使徒パウロは、多くの美しい表現をもって教会を表現している。エクレシヤ、神の国、神の家族。しかし、最も多く用いている言葉は〈キリストの体〉である(ローマ12:3-8、第一コリント12:12-31、エペソ4:11-16)。このキリストの体としての教会には、重要な二つの真理がある。

第一に、教会のかしらはキリストである。英語のチャーチという言葉はギリシャ語のキュリアコス(主に属する者)から生まれたもので、教会の主はキリストであることをよく表している。使徒パウロは、「愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです」(エペソ4:15)と語り、キリストとの生命的・有機的な結合と共にキリストの支配と標準を強調している。キリストが教会のかしらであり、教会においてはまずキリストに直結していなければ、生命も力も期待することはできない。

第二にキリスト者はキリストの体である。そこには三重の真理がある。まず一体性の真理で、民族・社会的階級・男女の相違を超えて一体とされ(第一コリント12:12-13)、異なった人間がそのままキリストにあって一つ体とされている。次は多様性の真理である。一体であることと同一であることとは違う。むしろ、一人の身体には異なった多くの部分があり、それぞれ異なった働きをしているように、同じ教会に属する者たちがそれぞれの個性と賜物を尊重しながら自由に活躍すべきである(第一コリント12:12-25)。最後は共に成長する真理で、体全体のそれぞれの部分がその力量にふさわしく働き共に仕え共に成長するように(エペソ4:15-16)、キリスト者も共に仕え共に成長するのである。

このような在り方は、それぞれの教会だけではなく、教会相互の協力関係においても重要である 。

3. 教会の使命と協力

神がこの地上にキリストの教会を創立されたのは、〈神を拝し互いに協力し合い、キリストの命令に従って、愛をもって失われた世界に福音を伝え〉るためである。私たちは、神が教会に与えられた中心的な使命は福音を保持し宣教することである、と確信している。私たちは、礼拝において神のみ言葉を聞き神を礼拝し、ささげる。弟子たちに全世界に行って福音を宣べ伝えるように命じられたように(マタイ28:19-20)、福音の宣教こそ教会に与えられた究極的な使命である。日本バプテスト教会連合は、その福音の宣教と教会の完成のために結成された。「この日本バプテスト教会連合は、教会完成のために教会連合を組織することが最良の方法であると信じる各地区教会が、バプテストの信仰に基づいて協力し、福音を宣べ伝え、参加各教会の発展を図って神の栄光を表すことを目的とする」。

連合はこの目的のために結成されたのであり、参加教会の相互協力を最も大切なこととし、さらに他の諸団体との協力も重要視する。排他的であったり孤立することは真実の教会にはふさわしくない。ただ私たちは各教会の自治・自立を尊重するバプテストの信仰に立っており、それぞれの教会は平等であって、各教会の自治を犯すことは決してない。

私たちは、バプテスマと聖餐の二つの礼典を誠実に執行する。バプテスマは信じて救われた人にのみ施し、その形式は聖書に基づいて浸礼で行う。聖餐式は、主イエス・キリストの十字架の記念として行い、ローマ・カトリックの化体説や一部プロテスタントの主張する共在説は採らない。