私たちは、生まれ変わったすべての人々が、キリストの体である教会の一員であるゆえに、イエス・キリストを模範とし、信仰のあかしとしてバプテスマを受け、地区教会に属し、礼拝と交わりを通して、神のみ心を実現してゆく責務を負っていることを信じます。このゆえに、キリスト者は、イエス・キリストに従うことによって、神の栄えと、人々のために生活し、神からゆだねられている一切の財産、時間、才能等を忠実に管理し、信仰によってその人格をキリストの徳の高さにまで到達させられる光栄にあずかっています。
教会に続いて、キリスト者の生活について告白する。このキリスト者の生活は大きく二つの部分に分けることができる。第一は教会生活であり、礼拝と交わりを通して神のみ心を実現する義務を負っていることを強調している。第二は社会生活であり、神からゆだねられている才能や財産を活用して神と人とに仕えて生きることを強調している。
これら二つのことは、キリスト者の生活においても最も基本的なことであり、それらがしっかりと確立しなければすべての生活は砂上の楼閣で終わってしまうであろう。私たちの「キリスト者の生活」に関する信仰告白は、必ずしも歴史的・社会的に十分に展開しているとは言えないが、この基本的な事柄が確立しているならば、すべての生活は祝福されたものとなるであろう。
1. キリストを模範とする
私たちは、キリストの体である教会の一員であり、何よりも〈イエス・キリストを模範とし〉て生きるのである。イエス・キリストを模範とするということは、道徳的にキリストのように生活するという意味ではない。むしろ、キリストとの交わりによってつくり変えられ、キリストのみ心に生きるということである。そのためには、罪を悔い改めてキリストを信じて受け入れ、さらに次のことが必要である。まず〈信仰のあかしとしてバプテスマを受け〉ることである。キリストは、神のみ心に従ってバプテスマを受けられた(マタイ3:15-17)。私たちも、キリストを信じ、バプテスマを受けるのである。日本では人間的な思いや配慮のゆえに、キリストを信じてもバプテスマを受けようとしない者が少なくないが、キリストの模範に従ってバプテスマを受けるべきである。次に、それぞれの〈地区教会に属し〉、教会員としての責任のある生活を過ごすべきである。さらに、〈礼拝と交わり〉を大切にしなければならない。礼拝は神との交わりであり、交わりは他のキリスト者とのキリストにある交わりである。礼拝と交わりはキリスト者の霊的成長のために欠くことのできないものであり、現実の生活で最優先しなければならない。
私たちは、これらの生活を通してキリストと共に生き、神のみ心を現実の生活において実現していくのである。
2. キリストに従う
キリスト者の生活は、キリストに従う生活である。キリストに従うためには、二つのものに勝たなければならない。第一は、自我に勝つことである。人間は、自分の考え方や生活がいつの間にか中心となってしまう、きわめて自己中心的な存在である。それは、キリスト者となっても克服しにくい現実であり、自我との戦いは最も厳しい戦いである。その自我との戦いに勝って、真実に神中心に生きる者となるのである。第二は、この世に勝つことである。ペテロが「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください」(使徒4:19)と語ったように、私たちは人より神に従う者となるのである。そのためには、私たちはこの世に勝たなければならない。
私たちがキリストに従うのは、〈神の栄光〉をこの世において現すためである。私たちの生活の目的は、自分の利益や栄誉ではなく、神の栄光を現すことである。また、私たちがキリストに従うのは、人々に仕え、〈人々のために生活し〉ていくためである。逆説的であるが、人ではなくキリストに従うとき、真実に人々のために生きることができる。キリストに従うとき、神の栄光を現し、人に仕えて生きることができるのである。
キリストに従う者として、現実の生活において大切なことは、〈神からゆだねられている一切の財産、時間、才能等を忠実に管理〉することである。財産も時間も才能も神のものであり、私たちはそれらを忠実に管理し、神のために活用しなければならない。(マタイ25:14-30)。
3. キリストに似る
キリスト者は、その日常生活においてキリストを現していく(第二コリント2:14-17)。そのためにもキリスト者は、〈信仰によってその人格をキリストの徳の高さにまで到達させられる光栄にあずかってい〉るのである。使徒パウロは、次のように述べている。「私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけまで達するためです」(エペソ4:13)。
キリストに似た者となることがキリスト者にとって最も本質的なことであるが、それは次の二つによる。第一は〈信仰によって〉行われることである。また、それは神が聖霊によって行われることであって、人間の力や努力でできることではない。人間は弱い存在であって、自らの力でその人格をキリストの徳の高さにまで到達させることはできない。しかし、キリストが内住され、聖霊の力によるとき、自ら到達することができるのである。第二は教会において行われることである。キリストに似た者とされることは、個人の倫理としてではなく、教会の交わりの中で実現するのである(エペソ4:15、16)。この教会的意味を見落としてはならない。
生活は人である、と言うことができる。人によって生活は決まってくるからである。そのゆえに、私たちキリスト者は、どのように生活するかを考える前に、どのようにキリストに似た者となるかを考えなければならない。私たちがキリストに似た者となるとき、私たちの生活もキリストにふさわしいものとなり神の栄光を現すことができる。