私たちは、教会の主なるイエス・キリストが、バプテスマと聖餐との聖礼典を、キリストの再臨の日に至るまで行うよう地区教会にゆだねられていることを信じます。また、バプテスマは、イエス・キリストを救い主として信じ告白した人の全身を水に浸し、聖餐式は、イエス・キリストによって定められたように、記念として行われます。

ほとんどすべてのプロテスタントの教会においては、バプテスマと聖餐を真の教会において行われる聖礼典として受け入れている。私たち連合の諸教会も、その二つの礼典を行っている。礼典は、聖なる教会の印の一つとして初めから重要視され、その意味と方法については多くの論議が繰り返されてさた。私たち連合は、穏健なバプテストの信仰と伝統に従い、前述のような告白をしてきた。

1. 二つの礼典

私たちは、バプテスマと聖餐の二つの礼典は、主から教会にゆだねられたものであることを信じている。まずバプテスマであるが、まず主イエスご自身が進んで受けられ、さらに「このようにして、すべて正しいことを実行するのはわたしたちにふさわしいのです」(マタイ3:15)と言われた。イエスの弟子たちもバプテスマを施し(ヨハネ3:22、4:2)、初代教会も多くの人々にバプテスマを授けた(使徒2:38-41)。次に聖餐式であるが、それは弟子たちと共に守られた最後の過越の食事から始まり(マタイ26:17-29)、初代教会において誠実に行われてきた(第一コリント11:17-30)。

ローマ・カトリックは、これら二つに加えて悔俊(しゅん)、堅信、品級、婚姻、終油の七つを秘蹟(ひせき・サクラメント)としている。メノナイトのあるグループのように、洗足を加えて三つの礼典を行っている人々もいる。礼典の解釈にもよるが、すでに述べたようにほとんどのプロテスタント教会は礼典をやや厳密に解釈して、二つの礼典に限定して行ってきた。

私たちは、バプテスマはあかしとして、聖餐は記念として行う。もちろん、バプテスマは霊的な死と再生という出来事の象徴的な意味があり(ローマ6:1-11)、告白としての意味もあるが、基本的にはあかしとしての意味があるということができよう。聖餐にもあかしとしての意味もあるが、基本的には記念として行われるのである(第一コリント11:25、26)。

2. バプテスマ式

バプテスマは、キリストにあり聖霊によって罪に対して死に神に対して新しく生まれた霊的な出来事を告白し、あかしするために行う。

バプテストは、その聖書的意味に鋭く目覚め、自覚的に行おうとした者たちである。そのゆえに、まず国民とキリスト者を同一視する国教会制度に強く反対し、教会はキリストにあって新生した者たちによってのみ形成されなければならないと主張したのであった。また、幼児洗礼に反対し、自ら自覚的な意志によってキリストを信じた者のみがバプテスマを受けるべきであると強調したのであった。

バプテスマの形式は、新約聖書の方法に従って浸礼であると確信している。これらのゆえに私たちは、〈また、バプテスマは、イエス・キリストを救い主として信じ告白した人の全身を浸し〉と具体的に告白したのである。

3. 聖餐式

聖餐は、すでに述べたように最後の過越の食事に由来し、十字架を覚えるために行われたのであった。従って、パンとぶどう酒はあくまでパンとぶどう酒であって、イエスの体や血となったり共に存在しているわけではない。しかし、聖餐式において、私たちは主イエス・キリストと聖霊によって一つとされ、他のキリスト者と一つに結び合わされていることを確信することができるのである。

聖餐式は牧師によって行われ、信徒役員がそれを補助する形で行われる。聖餐にあずかる者については、教派的地域教会を重視する者はその教会の会員に限定する閉鎖的聖餐式を行い、普遍的教会を強調する者はキリストにあるすべての者が参加する開かれた聖餐式を行っている。

連合は、それらと方法については特に具体的に規定せず、〈イエス・キリストによって定められたように〉と言及しているだけである。それには、聖餐が主によって制定されたという意味と、その理解と方法は原則として地区教会の独自性にゆだねるという意味が、それぞれ含められている。