私たちは、旧新約聖書は、神の霊感を受けて書かれた神の言葉であって、原典において無謬であり、また絶対的権威を持ち、信仰と実践の唯一の規範であることを信じます。
聖書ほど多くの人に読まれ、広く影響を与えた書は外にない。ヨーロッパやアメリカの文化や文学は聖書の知識がないと理解が難しい。最近ではアジア・アフリカ世界でも聖書は超ベスト・セラーとなっている。 聖書とは一体何であるのか。それは古くから多くの学者によって論じられてきた。私たちは、聖書は単なる歴史的文書ではなく、誤りのない神の言葉であると信じている。さて、前述の告白は、大きく三つの部分に分けることができる。
1. 聖書は神の言葉である
私たちが聖書と言うとき、それは〈旧新約聖書〉のことであり、六十六巻の文書によって構成されている。ユダヤ教は旧約聖書だけを正典とし、カトリック教会は外典を加える。しかし、私たちは、旧新約聖書六十六巻を正典とし、旧約聖書と新約聖書を等しく尊重する。それらは、全体として神のみ心を表し、神の救いの歴史を示している。旧約聖書はキリストの救いを予言し、新約聖書はその成就であると言われているように、旧新約聖書はキリストを中心とした有機的な関係にある(マタイ5:18、ヨハネ5:39、ルカ24:44、ローマ3:31)。
聖書は、神の霊感を受けて書かれた神の言葉である。〈霊感〉という言葉は、聖書が神の霊によって書かれたことを表している(第二テモテ3:16、第二ペテロ1:21)。つまり、聖書の著者たちは、神の霊に導かれて書いたのである。彼らはそれぞれの時代の状況の中で自由に書いたが、それは神の霊の深い感動と導きによっていた。この聖書の霊感について諸説がある。著者の自由な意志と人格とを認めない機械的霊感説、言葉を軽視した思想霊感説、宗教的真理は霊感されているが科学的には誤りがあるという部分的霊感説等である。私たちは、それらの説は採らないで、聖書はそのすべての言葉において完全に霊感された神の言葉であると信じている。
〈神の言葉〉というとき、そこには微妙で重要な意味が秘められている。それはまず、人間の言葉で書かれていることを否定するものではない。聖書はすべてそれぞれの時代の中でそれぞれの民族の言葉(ヒブル語、アラム語、ギリシャ語等)で書かれた。それらはすべて人間の言葉であり、読む者はだれでも理解することができる。それにもかかわらず神の言葉であるというのは、神の霊感によって書かれ、神の真理を啓示しているからである。
2. 聖書は誤りのない神の言葉である
聖書には誤りがあるのか。それは、古くから問われ、今日でも激しく論じられていることである。これまで、旧約聖書における年代や地名に誤りがあるという指摘から始まり、福音書の記事には矛盾があり、科学的に誤りがあるという主張が繰り返し行われてきた。つまり、聖書は宗教的には真理であるかもしれないが、歴史的・科学的には多くの誤りがあるというのである。
それに対して、私たちは、聖書は誤りのない神の言葉であると告白する。〈誤りがない〉と言うとき、そこには二重の意味がある。第一は一般に不可謬性と言われるもので、神の本質のゆえに霊感された聖書には誤りがあり得ないという主張である。神は本質的に偽ることのない方であり(民数記23:19、ローマ3:4)、主イエスも「あなたのみことばは真理です」(ヨハネ17:17)と言われた。第二は無誤性と言われるもので、聖書は人間の言葉で書かれるとき、実際に誤りがないように聖霊によって守られたという意味である。
私たちは、聖書は〈原典において無謬である)と、信じている。この〈原典)は、原著者たちによって書かれたもので、それらは今日存在していない。私たちの手もとにあるのは、それのおびただしい写本及び多くの訳本である。写本には絶対誤りがないと言うことはできないが、本文決定に問題となる写本間の相違はせいぜい0.2%程度にすぎないと言われている(ロバート・ディク・ウイルソン、ウエストコツトとホルト)。従って写本は原典の内容をほとんどそのまま正確に伝えていると考えることができよう。
私たちが実際に読んでいるのは、日本語訳の聖書であり、最近では多くの種類の訳本が出ているが、聖書学や翻訳の技術は目覚ましく進歩しており、さらに聖霊の働きのゆえに十分信頼して読むことができる。健全な知識と鋭い批判も大切であるが、神の言葉に対する絶対の信頼をもって聖書を読むことはもっと重要である。
3. 聖書は唯一の規範である
私たちは、聖書の絶対的権威を信じている。主イエス・キリストは聖書の絶対的権威を固く信じておられ、絶えず神の言葉によって答え、教えられた(マタイ4:1-11、5:17-48)。私たちも、自分の知識や体験によるのではなく、いつも聖書の権威によらなければならない。聖書は神の真理であるゆえに、人間に対して絶対的権威を持っているのである。
宗教改革者たちは、世俗化した教会の権威に対して、聖書の権威を強く主張した。聖書の権威は、宗教改革運動の基本原理であった。聖書は教会において正典として形成され、教会は聖書の権威に基づいており、本質的には、決して矛盾対立するものではないが、宗教改革の時代は世俗化した教会の権威と厳しく対立して説かれたのである。宗教改革者たちは、聖書の権威を主張しただけでなく聖書の注解と聖書的説教に力を注いだ。聖書に基づく生活を強調し、聖書を信仰と生活の唯一の規範として重んじた。ウエストミンスター信仰告白を始め多くの信仰告白は、聖書を「信仰と実践の唯一の規範である」と告白し、私たち教会連合もその信仰告白に従っている。
〈信仰と実践の唯一の規範〉は、具体的にはどのようなことを意味しているのであろうか。まず、聖書は信仰の唯一の規範であり、真実の神とその救いの業とに関する教えとを示している。次に、聖書はキリスト者の実践つまり生活の規範でもある。ただ問題となるのは、〈信仰〉は絶対であっても〈実践〉は民族と時代において多様であることである。従って画一化した規範を説いているのではない(ガラテヤ2:14)。それは自由の福音の本質に矛盾する。むしろ〈実践の唯一の親範〉とは、教会生活と日常生活の基本的本質を聖書から学び、その本質的教えに従って生きることである。デオグネトスにあてた手紙の中に、キリスト者は「地に住むけれども、天の住民である。人の建てた法に従うけれども、彼らの生活は法よりも良い」と述べられているように、キリスト者の生活は法律や戒律から自由であるが、それらの基準より、はるかに優れている。
今日、私たちが努力しなければならないことは、聖書の健全な解釈とその健全な適用である。つまり、聖書が書かれた時代の状況を深く考えて解釈し、今日における健全な意味を悟るようにしなければならない。